- 01はじまりの想い
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昭和8年。金井農園として、果樹園を順調に営んでいた半べえ先々代、金井半(なかば)は、その敷地一面につつじを植えたいと思い立ちます。「みなさまに喜んでいただきたい。驚いていただきたい」その一心で、一族の強い反対を押し、行動を起こします。
日本各地を巡り、探し出し、取り寄せた約10万本の苗木。現在の半べえ温泉(2020年11月に営業終了)あたりから、聚花山の山腹まで。大規模に開墾、植樹し、昭和11年、金井公園がオープンします。しかし、時代は、
暗く長い戦争へ。そして壊滅的な状態で終戦を迎えた広島の地には、つつじが美しく咲くのです。
- 02途切れぬ行列と、自然災害
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昭和21年、廣島遊園地とその名をかえた、半(なかば)の夢のカタチは、 「つつじの名所」として評判を呼び、遠く関西、四国、九州からも人々が
押し寄せます。ふもとから頂上まで、行列は途切れることなく続き、警察が交通整理に出たとの逸話も生まれます。
けれども、自然相手の道は、決して平坦ではありませんでした。断層に沁み込んだ雨による地すべりは、幾度となく繰り返され、台風や水害も大きな被害をもたらします。水路を造る改修工事を重ねます。加えて、つつじの手入れは年間大変手がかかり、現在まで多大な維持費を費し続けることとなります。
- 03「聚花山の庭」の誕生
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昭和45年。先代、金井判(わかつ)のこだわりと、昭和の小堀遠州と称えられた偉大な庭園家、重森三玲氏の手によって、「聚花山(しゅうかざん)の庭」が生まれます。独特の石の立ち姿。四季おりおりの景色。半べえ庭園は、年月を重ねて、一層その落ち着きと趣を増していきます。
- 04はじまりの想いは、現代へ
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当時の姿そのままに、毎年春を彩る半べえ庭園のつつじ。久留米つつじ。 平戸つつじ。深山霧島など約300種。そこに集う笑顔と笑顔。70年を経た今。半(なかば)の想いはこうして、ずっと伝え継がれています。
日々、季節の巡りを教えてくれる庭園。その美しさと恵みをひと品に映す日本料理。時代とともに失われていく日本の伝統文化をできる限り守ること。たいせつに伝えていくこと。先々代から先代。そして当代へ。繋がるひとつの想いが「半べえ」です。